お札の新デザインが発表!変わる理由と人物について調査

麻生太郎財務相が4/9(火)の記者会見でお札のデザインが新しくなることを発表しました。

デザインの変更時期は2024年の上半期をめどになっております。今から5年後と少し発表が早いきがしますね。。。

今回発表された人物

  • 北里柴三郎 千円札
  • 津田梅子  五千円札
  • 渋沢栄一 一万円札

このお三方はどのような偉業を成し遂げたのか?人物像など詳しく調べていきたいと思います。

お札が変わる理由

お札が変わるのは偽造防止というのが大きな理由になっています。

一万円札では1984~2004年まで同じ人物ではありますが、偽造防止の新しい技術が追加された新しいものになっています。次回は2024年なので、20年ごとに刷新されるようになってきています。

【一万円紙幣刷新年】

1958年 聖徳太子

1984年 福沢諭吉

2004年 福沢諭吉

2024年 渋沢栄一 予定

新デザインの人物はどのような人なのか?

北里柴三郎(千円札)

1853年肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。

18歳で現在の熊本大学医学部に入学、21歳で現在の東京大学医学部に入学

「医者の使命は病気を予防することにある」という信念のもと予防医学を学びました。

大学を卒業後、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に入局し32歳でドイツへ留学。

そこで近代細菌学の開祖とされるロベルト・コッホに師事する。

36~37歳の時に破傷風菌の純粋培養に成功、毒素を中和する抗体を発見し毒素に対する抗体を作らせる「血清療法」を確立する。

39歳で帰国し福沢諭吉等の援助を得て私立伝染病研究所を設立。

41歳の時にペストが蔓延する香港に派遣され、ペスト菌を発見。

53歳では日本連合医学会会頭を務め、60歳の時に日本結核予防協会を設立。

61歳では市立北里研究所を創立。

70歳で日本医師会を創設、初代会長に就任する。

193178歳で脳溢血によりその生涯を終えました。

以上が北里柴三郎氏を調べた内容になります。

どれもすごい経歴ですが、個人的に気になったのは血清療法の確立でした。

漫画やドラマなどで、毒ヘビに噛まれ血清が必要だなどの話を見たことがあったので、印象に残りました。

津田梅子(五千円札)

1864年江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。

6歳で岩倉使節団の日本留学生5人の内最年少で渡米。

8歳でフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける(キリスト教入信の儀式)

13歳でコレジエト校を卒業。私立の女子校、アーチャー・インスティチュートへ進学、ラテン語、フランス語、英文学、自然科学、心理学、芸術などを学んだ。

 17歳で日本に帰国し、18歳の時に華族子女の私塾・桃夭女塾を開設した下田歌子の下で英語教師となる。20歳では学習院女学部から独立し設立された華族女学校で英語を教え、21歳の時に嘱託として3年ほど教えていたが、上流階級の気風に馴染めずにいた。留学時代の友人に薦められ再度の留学を決意し24歳で渡米。ブリンマー大学で生物学を専攻しカエルの卵の発生に関する論文を執筆。

大学を卒業後、自分の後に続く日本女性留学生のための奨学金制度を設立する。

27歳で日本に帰国、再び女子華族院に教師として勤めながら自宅で女学生を預かるなどの積極的援助活動も行う。

35歳で父の仙や友人、その他の協力者の助けを得て女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設する。

個性を重んじ自由なレベルの高い授業、一人ひとりに目が行くように少人数教育を取り入れ、より高度で専門性の高い授業が評判となった。

38歳の時に専門学校令が公布され、塾が社団法人となる。

50歳の時に女子教育の貢献に対して、勲六等宝冠賞が授与された。創業期に健康を損なっていたため、54歳で塾長を辞任する。

鎌倉の別荘で長期の闘病後、脳出血により64歳でその生涯を終えました。

以上が、津田梅子氏を調べた内容になります。

津田梅子氏は留学先では自分の勉強のためだけではなく、

女性が留学しやすいように奨学金制度を設立したり、

日本では私学塾を創設するなど、女性の環境をよりよくするために努力し続けた方なんですね。

渋沢栄一(一万円札)

1840年武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれる

7歳で従兄の尾高惇忠から四書五経や『日本外史』など漢籍を学ぶ。

18歳で尾高惇忠の妹である千代と結婚。

23歳の時に高崎城乗っ取りの計画を立てるが、尾高惇忠の弟である長七郎の説得により中止、京都へ出奔し、24歳で一橋慶喜に仕える。

25-27歳の時、慶喜が将軍となるのに伴い幕臣となる。慶喜の異母弟・徳川昭武に従ってフランスへ出立。ヨーロッパ各国を訪問する。

28の時に日本に帰国。29歳で日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を設立、その後大隈重信に説得され、大蔵省に入省する。、度量衡の制定や国立銀行条例制定などに携わり、経済の確立に取り組む。

33歳で大蔵省を辞め、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を開業。35歳では商法講習所(現在の一橋大学の源流)を設立。第一国立銀行の頭取に就任し、日本を経済の面で諸国に引けを取らない国にしようと500社以上の設立に関わる。

渋沢氏は社会事業にも熱心で、養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)や東京慈恵医院(現:東京慈恵会医科大学付属病院)など約600もの社会事業に関わっている。

193191歳でその生涯を終えました。

以上が渋沢栄一氏を調べた内容になります。

実業家として第一国立銀行や地方銀行に関わっていて、お札の新デザインには適している人物なのではないかと個人的には思っております。

渋沢栄一氏は書くのが大変でした。多くの事業に携わっているため、情報量が多くどこまで書くか悩むところです。

まとめ

北里柴三郎氏、津田梅子氏、渋沢栄一氏について調べさせていただきました。

今回の新デザインの人物について人によって納得の有無はあるかと思いますが、

私個人としてはせっかく変わるのですから否定的な意見よりどんな人物なのかを知って、

肯定的な気持ちで刷新されたお札を使っていきたいと思っています。

以上、最後まで読んでいただきありがとうございます。